1(03.03.02)
―――人は、簡単に壊れるよ。
最初にそれを聞いたのはいつだったか。
反発するより先に、薄ら寒さを覚えた。
自分を見つめる瞳が笑っている。
多分、そいつはこう言いたいのだ。
―――人は、簡単に壊せるよ?
その言葉に恐怖を覚えた理由、それは簡単なものだ。
サンジは知っていたのである。
それが事実であることを。
「おい、クソコック」
横柄な口調で呼ばれ、ゴーイングメリー号のコックは眉をひそめながら振り返った。
「んだよ、クソ腹巻」
その呼び名に相手の方でもむうと顔を顰める。
そんな顔するくらいなら、最初から名前を呼べばいいのに、何度もそう言っているのにまったく学習しないマリモ頭にため息がこぼれた。
「何か用かよ、ああ?」
「……別に」
「用がねえなら話しかけんな。俺ぁ忙しいんだよ、どっかの昼行灯と違ってな」
ずけずけ遠慮なく言ってやると、ますます難しい顔をする。
拗ねているのだということが、サンジにはわかる。だが、甘やかすつもりはないので、相手からの言葉を待つのだ。
「……喉」
「あ?」
「渇いてんだよ、喉が。こないだのあれ、また作ってくれねーか」
「どっちだ?」
「赤い奴だ」
「了解」
最初からそう言えと、怒鳴るのではなく笑顔で言ってやる。その方がこのアホには効果があると、サンジの方ではもう学習しているというのに。
裏のない笑みは伝わったらしい。しばし惚けたようにサンジの顔を眺め、それからハッと我に返ったように瞬きをする。見惚れていたという事実が認め難いのかもしれない。
そんなところを馬鹿だなと思う。人間正直に生きるのが一番なのに、そういうところがなってないのだ、この男は。修行が必要なのは何も剣の腕だけではない。
それをどうやってわからせてやればいいのか。
「おい、ゾロ、グラス取れ」
無造作に用を言いつけてしまってから、ああ、しまったと思った。結局また自分が先に名前を呼んでしまった。舌打ちしそうになったが、ゾロがあまりにも素直にサンジの言葉に従ってグラスを運んできたので、機嫌は降下せずにむしろ上昇カーブを描いた。
差し出されたグラスに、作りたてのフレッシュジュースを注いでやる。
「ルフィに見つかる前に飲んじまえ」
量が作れない分、どうしてもこのジュースはゾロだけの胃におさまることになる。というか、ゾロ用に考案したスタミナ回復ドリンクなのだ。だから他の連中にはまた違う飲み物を作っているのだが、自分が口にしたことがない飲み物があることを知ったらルフィは騒ぐだろう。
ゾロも心得ているのか、その場で一気に飲み干すと、ふうと息をついてグラスをシンクに置いた。
「ごっそさん」
「それだけか?」
「…旨かった」
「ったりめーだ。それだけかよ?」
グラスを洗いながら更に問いかけたサンジに、ゾロは口をへの字に結んだ。そしていきなりサンジの頭を鷲掴みにする。
「うわっ」
音がしそうな勢いで首を曲げられたかと思うと、目の前に顔が迫ってくる。
ぶつかる…と思った時には、実際にぶつかっていた。
唇と唇が。
それはほんの一瞬で、ゾロはすぐにサンジから離れると睨みつけてきた。
怒っているような表情だが、そうでないことは知っている。その証拠に頬がわずかに赤い。
(かーいいねェ、この純情マリモは)
おかしくなって、サンジから追いかけるようにしてもう一度キスをした。
ゾロは逃げない。むしろ身を退こうとしたサンジの頭を固定して更に深く舌を絡めてきた。
その気にさせてしまったかと慌てるが、さすがにTPOはわきまえているらしい。名残惜しそうにサンジの唇を舐めてから、大きな動物のような男は離れた。
「……何でそんな顔する」
相変わらず睨みつけるような表情でゾロは問いかけてくる。
そんな顔?
どんな顔?
濡れた手で自分の頬を触ってみる。
口元が緩んでいて、ああ、笑ってるんだとわかった。
笑顔になるなる理由。そんなの決まっているだろう、そんなこともわからないのか、この動物は。
「嬉しいからな」
「何が」
「全部」
「何だそりゃ」
「わかんねえならいいさ。おら、用が済んだなら出てけよ。トレーニング続けんだろ?」
赤いフレッシュジュースを欲しがる時はそういう時だ。
そのままにこにこしているサンジに、ゾロは難しい顔をしたまま踵を返した。
その彼がドアのところで振り返り、まだサンジが自分を見ていることに驚いたように身を竦め、それから慌てて出ていった。
そんなこんなの様子に、サンジはおかしくなってしまう。
あいつは本当に馴れない。いつまで経っても馴れようとしない。それがくすぐったいような妙な嬉しさとか愛しさにつながる。
馴れないことなら、馴れればいい。本当に自分がサンジを手に入れたのかどうかを疑うのなら、気が済むまで確かめればいいのだ。
そのためにサンジはここにいる。
変わらずに、ここに在る。
微笑んだ彼の耳元…いや、その奥でくすくすと忍び笑う声が聞こえた。
途端にサンジの顔から笑みが消える。
―――可愛いね。
それはサンジがゾロに対して抱いた感想。それを繰り返され、だが頷く気にはなれない。
―――本当に可愛い。その上強いんだよね。
応えず、サンジは鍋に向き直った。
―――知ってる?
何を、とは訊いてやらない。
―――ああいうのこそ、壊れやすいんだよ?
くすくすと笑うその声を、耳の底に葬って、サンジは素知らぬ振りを通す。反応を返したら駄目だ。面白がって、きっと奴は言う。
―――壊してやろうか?
危惧したそれを囁かれ、サンジは小さく舌打ちした。
「壊れねえよ」
思わず、そう吐き捨ててしまう。思うつぼだと知っているのに。
「てめェに壊せるほど柔じゃねえんだ、あの野郎は。…俺がそう教育してんだからな」
強く、柔軟に、すべてに立ち向かっていけるように。
―――わかってないなぁ。
声は、嘲笑うように色を変えた。
「だからだよ、サンジ」
今度の声は、聴覚に直接響く。
まずいと思った時には、躰の自由を奪われていた。
「サンジが愛したから、愛情を教えたからこそ、あの男は脆いんだ。それを証明してやるよ」
楽しむような声に反抗しようにも、声さえ封じられていた。
そして耳が聞く。
「敵襲だーっ」
切羽詰まったウソップの声が響いた時には、すでにサンジの意識は霞みかけていた。
そして。
悪夢は始まった。
い、祝おうという気持ちはもちろんあります! この話だってきっと最後はラブバカ最後はラブバカ最後は…絶対ラブバカ。ご安心を。途中経過は保証できかねますが(おい)
2(03.03.03)
ロロノア・ゾロという賞金稼ぎの噂を聞いたのは、幾つの時だったろう。ずいぶん若い男なのだと聞いた。
レストランに来た客が話していたその噂話を聞いて、最初に考えたのは可哀想だなということだった。
魔獣とか言われているのだそうだ。血も涙もないとも言われ、無情に敵を倒していく。
そういう奴はきっとどこかが壊れているんだと、そう思ったから可哀想だという感想を抱いた。
実際にその男に遭遇したのは十九歳の時。そしてそれが旅立ちにきっかけにもなった。
仲間として共に航海を始めてみると、噂通りの面と、そうでない面というのが見えてきた。
確かに剣士としては強い。情け容赦なく敵を打ち倒していく姿は非情といってもよいものかもしれない。だが非道ではない。この男はまだ道を踏み外していない。
それは人として大切なことだ。
サンジはこの世に生きる困難さを人より少しだけ知っているつもりだった。生きにくい時代に、だが自分を確立して生きている姿を凄いと思った。
不殺。
海賊を狩る男はそれを貫いている。それが可能な彼の技量と、その技量に溺れてしまわない精神の強さを凄いと思ったのだ。
だが、ゾロの内面は、サンジがその姿勢から想像していたよりはずいぶんと未成熟だった。
ガキと、言ってしまっていいかもしれない。
まあ、剣の道で突出している分、他の面が育っていないのかもしれない。
主に対人関係にそれが現れていた。
ああ、こういう奴は一歩間違うと壊れやすいかもしれない。そんな危惧を抱いたのは、あるいは彼に惹かれた自分を誤魔化すためだったのかもしれない。
ゾロのまっすぐな気性が好きだった。
射竦められるような、そんな強い瞳が好きだった。
淡々とした言葉の裏に隠した激情が好きだった。
全部全部、好きだったのだ。
「―――ジ………サンジっ」
叫びが聞こえる。
なぜだかひどく重い瞼をどうにか開くと、目の前にゾロの顔があった。なので思わず微笑んで手をのばそうとして、胸に激しい痛みを感じた。
とっさに咳き込んだ、その拍子に喉をゴポリと血の塊がせり上がる。
「サンジっ」
慌ててサンジの口元を拭うゾロの手が真っ赤に染まったのを横目に捉えた。
状況はうまく把握できない。だが、ゲームが始まってしまったことを、サンジは確信した。
「………ロ…」
「しゃべるな、すぐチョッパーが来る」
真剣なゾロの声に、サンジは笑った。
多分、それは意味のないことだ。だから、伝えなければならない。主導権をあの化け物に奪われる前に。
「ゾ…ロ……」
「しゃべるなって言ってんだろ!」
怒鳴る声がそんなに震えては、全然迫力ねえよなぁ。
「……なあ…ゾロ……」
「黙ってろ。……頼むから…サンジ」
先刻から何度も呼ばれる名前。
ああ、おまえ、大判振る舞いじゃねえか。
嬉しくなって微笑んで、サンジはゾロの腕を掴んだ。
もっともっと、名前呼んでほしい。
「サンジっ」
「ゾロ…」
何と言えばいいだろう。この状況を、ゲームを、これからの展開を。
何と伝えておけばいいのだろう。
心配するなと。
それはやはり意味がない。
なら。
意識が途切れそうになる中で、サンジは必死に考えた。
だが、口を出た言葉はたった一言だった。
「……負けるな」
このゲームに勝ってくれと、告げられたのはそれだけ。
そしてサンジの意識は闇に沈んだ。
海賊としてグランドラインを航海する以上、同業者に襲われることなど日常だといっていい。
今回もそんな日常の一こまであるはずだった。
ゴーイングメリー号は小さな船だ。乗組員はたったの七人。その七人で様々な苦難を乗り切ってきた。その経験は自信となっていたが、決して驕っているつもりはなかった。
まさかこんな形で足元を掬われるとは、想像もしていなかったのだ。
敵の姿を最初に捉えたのはウソップだった。彼の叫びに、暇そうにしていた船長が真っ先に駆けつけ、ゾロがそれに続いた。
敵の船足の方が早く、逃げ切るのは無理と見たナミが、すぐさま攻撃態勢を整えさせ、そして戦いは始まった。
あっという間に片づくはずだった。皆そう思っていた。
ただ、その戦闘の中で、コックの所在が曖昧だった。あとになって確認してみると、ゾロだけでなく誰の記憶の中でも、その戦闘でのコックの存在が不明であることが知れた。
これはめずらしいことだ。
普通なら、あのコックはゾロやルフィと共に敵に突っ込んでいく。その必要がないと判断したのなら、ラウンジで舵を取っていたナミやウソップが、キッチンに立つ彼を覚えていていいはずだった。
だが、二人ともサンジの姿を見てはいなかったのだ。てっきり外で戦っているのだと思っていたらしい。
そうではなかった。甲板で戦う中にその姿を見た記憶がロビンやチョッパーにはなく、敵船に飛び込んでいったルフィとゾロも、そこでサンジの姿を視認できなかった。
なので戦闘組は、サンジはナミたちと共にラウンジの中にいるのだと思いこんでいたのだ。
敵の数が少なく、雑魚ばかりだった故の思いこみだったかもしれない。今考えれば、ロビンが戦っている状況で、あのフェミニストがおとなしくラウンジに収まっているはずはなかったのだ。
実際に戦闘が終わって、そして仲間たちは初めて気がついた。
船尾に倒れ伏したサンジに。
真っ赤に胸を染め、血溜まりの中でぴくりとも動かないその姿に。
駆け寄ったゾロの腕の中で、サンジは微かに笑んだ。血の気を失ったその顔は、だがいつも通りの綺麗な笑みを浮かべた。そして「負けるな」と、掠れた声でそれだけを言って、意識を失った。
それきりだ。
それきり、サンジは眠り続けている。
チョッパーは必死の治療を続けた。船の上では限られる薬を入手するためすぐさま近くの島に寄港し、その町で一番大きな医者にも診せた。
診断の結果と治療の方法は、だがチョッパーが示したものと同じだった。
なので必要な薬を入手できただけ積み込み、そのまま船を出した。陸にとどまることは海軍や賞金稼ぎを招き寄せるからだ。
そして一週間が経った。
サンジは眠り続けている。
胸の傷は塞がらず、少しずつだが血を失い続けている。
そしてサンジの意識も戻らない。
ただひたすら、彼は眠り続けているのだ。
3(03.03.09)
―――おめェ、本当に長生きできそうにねえよな。
そう言って微笑った顔は、呆れてはいたが馬鹿にしたようなものではなかった。
しょうがねえなと言いたげな、いや、実際に口に出しても彼はそう言った。
ゾロの生き方がそうなら、せめてそれ以外のことで躓くことがないようにと、日常生活の中でもっとも必要な栄養摂取に関しては任せておけと豪語したコック。
その生き方を貫けばいいと、背を押して前に進ませようとした男。
正直言って、サンジと初めて会った時の印象は、良くはなかったのだ。再会の時もそうだった。それでも、魚人と戦う中で少し見直し、仲間として航海することもできるだろうと思った。
基本的にゾロは他者には関わらない。航海に必要な働きはするが、仲間にためにどうこうという意識は薄かった。彼はただ強くなるために旅を続けていたのだ。
その中で、死を覚悟するほどの強敵にも何度か会った。
だが、戦いを乗り越えてゾロはこうして生きているし、相手を殺したこともなかった。
単純に必要がなかったからだ。力が拮抗して、どうしても必要とあれば殺すこともするだろう。たまたま機会がなかっただけだ。
そのことをサンジに話したのはいつだったか。
それでいいんじゃねえのと、夜中に酒を酌み交わす程度には親しくなっていた男は笑った。
「不殺を貫き続けられるくらい、てめェが強く在り続ければいいだけの話だし」
どんな敵であろうと殺さずにすむだけの強さ。
「どんだけの強さだ、そりゃ」
不可能に近いだろうと返したゾロに、
「それが世界一に近づくことでもあるんじゃねえの?」
気楽に答え、サンジはグラスを空けた。
その難しさを知りもせず、他人事だと思って簡単に言ってくれるとゾロは苦笑したが、怒る気にはならなかった。サンジの考えを否定する気もなかった。
むしろ、本当にそれができたら世界一に近づけるかもしれないなんてことも考えた。
無意識に、たまたま実行していただけの不殺が、できればやりたいことに変わった。
それでも、敵の命と自分の命をはかりにかけたら、ギリギリのところではきっと自分の命を優先するだろうとは思った。世界一になるまで、死ぬわけにはいかないのだから。
それでいいと、サンジは咎めるでもなく肩を竦めて答えた。
思った通りに進めばいいと、まっすぐにゾロを見てそう言った。
そんな彼に手をのばした、きっかけは何だったろう。雪山でナミを救うために彼が死にかけたことを知り、アラバスタで死の砂漠を共に越え、そしてビビの悲願が達成されたあと、ぽっかり空いた時間の中で、ああ、こいつが好きだと、そう思ったのだ。
喧嘩を多くした。それこそ数知れないほど。
だが、それは相手への嫌悪につながるものではなかった。主張がぶつかり合うことはあっても、不当だと責めることはあっても、憎しみに変わることはなかった。
むしろ喧嘩の中で、あるいはそのあとに、相手のことをより深く理解できたと、そんなことを思う。
思ったままを言った。
その場でまた喧嘩になるかと思った。
そうはならず、見開かれた目が笑みの形の細められ、そして煙草を抜き去った唇が近づいてくるのを、不思議な思いで見つめていた。
重なった唇が、その行為が何と呼ばれるものか、知っているはずなのに自分たちに置き換えて考えるのが難しかった。
動揺していたのだと思う。
「奇遇だな」
ゾロを衝撃に固まらせた男は、笑いながらあっさりとそれを言った。
「俺もなんだ」
サンジも何だというのか。
言葉がなかなか意味を持たなかった。
自分の告白に応じての言葉だと、知った時には歯止めが利かなくなっていた。
そのままの勢いで最後までいってしまった関係に、サンジは呆れたようだがやはりゾロを咎めることはなかった。
赦されている。
サンジの傍らにいるとそれを感じる。
口は悪い。態度も悪い。喧嘩は相変わらずしょっちゅうだ。
だがそれでも、その存在を感じるだけで緊張がほぐれる自分を、ゾロは自覚していた。
この感情に、どんな言葉を当てはめるべきか、ゾロにはよくわからなかった。好きだという、それだけでいいとサンジが言ったから、考えなくてもいいのだと思考停止した。
心地好い存在。それがあることは不思議な感慨を生んだ。
静けさはない。むしろそれは一人で旅していた頃の方が多く感じたものだ。今は騒々しい毎日だ。精神的にも浮き沈みが激しい。
だがそれを快いと、そう感じる自分がいるのだ。
周囲に精神状態を左右される。それは本来忌避すべきことのはずだ。なのに以前の一人旅をしていた頃より、いざという時に集中できる自分をゾロは知っている。
メリハリがついた、そんな気がするのだ。
始終張りつめている必要がないから。気を抜く時には抜いて、そして戦いの場では精神を統一する。それができる。
それをさせてくれる存在がある。
そのことがいまだに信じ難い時がある。だからつい確かめるようにその姿を探し、気づかれると笑われるのだ。もっともそれは嫌な笑いではない。ゾロがそうすることを、しょうがねえなと、だが嬉しそうに肯定する男の姿にそう思う。
皮肉な、喧嘩腰のそれとは違う。
最近のサンジがよく見せてくれる表情が好きだった。
―――最後の最後にも、彼はそんな笑みでゾロを見た。
瞳を閉じる最後の瞬間まで、ゾロを見つめていた。
ガラス玉のような青い瞳を、それでも綺麗だと思った自分を、ゾロは許し難く思っている。
意志の力を宿した強い瞳の方が綺麗に決まっている。あんな、何も映さなくなった虚ろなそれよりも。
声。
声だってそうだ。
空気洩れしたような、ひゅーひゅーという音に紛れたか弱いそれよりも、俺を怒鳴り飛ばすあの声が好きだ。
ぶっ飛んだ性格が、すぐに俺をからかう意地の悪さが、その笑顔が、優しさが、ぬくもりが。
全部が。
生きたあいつのすべてが、愛しい。
「……冗談じゃねえ」
自分からそれを奪おうなんて、それがサンジ自身だとしても許せるはずがない。
今更、なくせるはずがないものなのだ。なくしていいはずはないのだ。
ゾロは頑なにそれを思った。
海賊家業をしていれば、そんな危険が皆無とは言えなかった。それでも、自分の前からサンジが失われることを、少なくともこんな形で消えるかもしれないなんてことは、一度も考えたことはなかった。
―――一度も?
そうだろうか。
何度も何度も心の奥底で考えて、そのたびに恐怖したからこそ、今こうして恐慌状態になっているのではないだろうか。
恐怖が現実になる日が来ると、それを知って。
4(03.03.13)
(食わねえか、あいつ。…参ったな、誰もそれ言い出さねえのかよ)
苛立つ思いで爪を噛む。だが、仲間たちの憔悴した姿に、それが自分のせいだと思い知る。
責められるべきは自分だ。迂闊に意識の主導権を明け渡してしまったせいで、今仲間たちはこんな事態に追い込まれている。
危険が迫っているのは自分自身もだ。チョッパーが手をつくしてくれているが、このまま血が失われ続ければ、サンジの命も危うくなるだろう。
もっとも、サンジ自身があきらめてしまうまでは、死に至ることはないと知っている。その辺、約束を律儀に守る奴なのだ。
約束―――。
あの剣士も、約束にこだわる奴だったなと、サンジはそんなことを思った。
現実のサンジが意識を失うのとほぼ同時に、こちら側での覚醒があった。なのでサンジは、この一週間の仲間たちの行動をすべて知っている。ゲームに関わることができないまま、傍観者であることを義務づけられているのだ。
だから、知っている。
最後の会話を交わしたあと、目を閉じたサンジを抱きしめたまま吠えたゾロのことを。チョッパーの治療を見守り、そのあともサンジの傍を離れようとしなかった彼の姿を。
目を離したらそのままサンジが消えてしまうのではないかと危惧するかのように、睡眠も食事も疎かにして、ただ食い入るようにサンジを見つめ続けた剣士。
その彼も、さすがに疲労したのか、今はソファに寄りかかるようにして眠りに落ちている。
現実の視野がない分、サンジには船の隅々まで様子がわかる。
ナミはラウンジでテーブルに突っ伏している。ロビンはそんな憔悴したナミにあたたかい飲み物を作ってやっていた。船長は定位置で前を見据え、チョッパーはもう何度も読み返したろう医学書を改めてひっくり返している。そしてウソップは…。
「―――ひいっ」
いきなり裏返った声がした。
ウソップだ。
男部屋に下りてきた彼は、眠るゾロに気づいて毛布を掛けてやろうとしたのだ。だがその気配に飛び起きたゾロが、抜いた刀の切っ先をウソップの喉に突きつけていた。
「び、びっくりさすなよ、ゾロ」
ぱちぱちと瞬きをして、気の良い狙撃手は躰の力を抜く。その手にある毛布を見て、ゾロは状況に気づいたらしい。
「寝ちまってたのか、俺は」
渋い顔で呟いたゾロは、それから息を呑んでソファを振り返った。
相変わらずぴくりとも動かないサンジの顔をまじまじと覗き込み、そして細いが確かな息を感じて大きく吐息する。
「サンジは相変わらずか?」
「……ああ」
「俺が見てるから、ゾロ、少し寝たらどうだ?」
「いい」
即座に返すゾロに、ウソップはため息をつく。
「このまんまじゃ、おめェまで倒れちまうぞ」
「そんな柔じゃねえ」
「ま、そりゃ知ってるけどよぉ」
仕方なさげに呟いて、ウソップはゾロに並ぶようにして座り込んだ。
「チョッパーがよ、今頑張ってるだろ? サンジの目覚まさせようとそりゃもう必死だ」
「……」
いきなり何を言い出すのかと、ゾロは横目に仲間の顔を見た。
「そっち方面では、もうチョッパーに任せるしかねえかと俺は思ってる。だから代わりに俺は俺のできることするしかねえかなって」
「……」
「ルフィはもう、それが本能的にわかってんだな。だから何も言わねえ。ただ前見て進むだけだ。ナミも航海士としてできることしようとしてる。ロビンはそんなナミに気ぃ遣ってんな。飯の支度もしてくれるしよ」
「……」
「おめェには何ができる、ゾロ?」
問われて、ゾロはウソップを睨んだ。
わかっている。サンジにこうしてついていてもゾロには何もできないことくらい最初から知っているのだ。
それでも離れられない。
それが悪いか。
「おめェは戦闘要員だろ? サンジがこうして戦闘不能状態にあるんだ、今まで以上におめェの戦闘力は貴重だろうが」
「それがどうした?」
声に表れる苛立ちに、ウソップがまじまじとゾロを見た。
「さっき、俺がわかんなかったろ、ゾロ。敵かと思ったんだろ? 今まで、寝てたからってそんなことあったか、おめェ?」
「……」
「余裕、ねえだろ、全然」
「……」
「そんなんで、サンジ抜けた穴をカバーできんのか? こいつが目覚ますまで、無傷で自分とこの船守れんのかよ、なあ、ゾロ」
「そんなの……」
「簡単だとか言うなよ? それほど海が甘くねえことは、こいつ見ればわかんだろ?」
船長を頂上とするなら、ゾロとサンジはその下で両翼としてこの船を守ってきた。コックにあるまじき戦闘力で、常に前線に立っていた彼が、今こうして死の淵を彷徨っている。
わかっている。この海はそんなに甘くはない。気を抜けば、死の顎がいつでもぱっくりと口を開けているのだ。
「サンジが目覚ました時、もしこの船やおめェや、他の誰か一人でもしゃれにならない怪我しててみろ、あのアホは自分のせいだって思いこむだろ」
そんなこともわかんねえのか?
そう強く問われ、ゾロは目を瞠った。
サンジが目を覚ましたら。
不覚にもゾロはそれを考えていなかったのだ。
サンジの息が止まってしまわないこと。それだけを考えていた。意識を取り戻し、いけすかない減らず口を叩く姿を、なぜだか彼は想像さえしていなかったのだ。
何てことだと茫然とする。
サンジの無事を祈りながら、ゾロは彼の目覚めをあきらめていた。
いつ死神がこいつを連れていくか、その瞬間を逃さない、それだけに集中していた。
そんな薄情な自分に比べ、他の仲間たちは皆、サンジが目覚めることを信じているのだ。その日のことを考え、そしてこんな風にゾロを叱咤してくる。
「………ウソップ」
「ああ」
「…ウソップ」
「……? 何だよ、どうした、ゾロ?」
うつむいたまま繰り返し名を呼ぶゾロに、ウソップは戸惑うように返す。
その彼を、強いような、それでいて脆いような、ひどく不安定な瞳が見上げた。
「もういっぺん言ってくれ」
「何をだ?」
「こいつが目ェ覚ましたら…」
「ああ。まず自分を責める。そんなことわかりきってんだろ」
サンジをよく知る仲間にとっては、それは確かにわかりきったことだ。
「そうでなきゃ、おめェのこと罵るかもな」
それもあり得る。
ゾロは微笑った。
どうにか微笑うことができた。
「どっちもごめんだな」
「だろ? だったら寝ろ。そして食え」
サンジの意識があったらきっと言うだろうようなことを口にしたウソップに、ゾロは頷いた。
ウソップの言葉を、その可能性を、ゾロも信じようと、そう思ったのだ。
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